(日没時の青い風景と一番星)
こんにちは!
新年初めての投稿になります。
今年もどうぞよろしくお願いします😄
新年早々お別れの内容になってしまいましたが、本当は年末に2017年のまとめで書きたかったけれど、年末年始は半月ほど家を空けていたので書けずでしたので新年に。
2017年は私の大切な人をお見送りした年でした。生まれる前からそばにいてくれて、常に深い愛情でいつも温かく包んでくれた人。
1歳 関東大震災
6歳 世界恐慌
8歳 満州事変
16歳 第二次世界大戦
17歳 満州とフフホトへ渡航
22歳 終戦
24歳 結婚
27歳 朝鮮戦争
41歳 東京オリンピック
55歳 宮城県沖地震
88歳 東日本大震災
91歳 曾孫が3人生まれる
そう、大正11年生まれの仙台の祖母です😊
95歳の亡くなる1か月前まで自宅で元気に暮らしていました。自宅で食べられなくなり入院。2週間は意識もしっかりしていて病棟で話せました。その後1週間で急速にバイタル低下し、最期は3人の息子と娘に看取られ深夜に静かに逝きました。
肝臓ガンが胃を圧迫して食べられなくなったのが医学的理由で、延命を希望せずの本人意思によりターミナル病棟にて点滴のみの処方でした。
ちょうど私もベルギーから日本に帰国し、タイや上海にいた従兄弟もしっかりまだ話せる祖母に会えました。
皆の事を一人一人気遣う人で、最後まで弱音なんてはかなかったけれど、亡くなる2週間前に『おばあちゃん、こんな弱くなってしまった.....』と言われ返事に詰まりました。
私の母には唯一の娘ということもあり『お父さんがまだ迎えに来てくれない.....』等もこぼしていたそうです。祖父は4年前に99歳で亡くなっています。
亡くなる7時間前に最後の挨拶をして、仙台の病院から都内の実家に妹親子と一緒に帰りました。夜中に母から『旅立ったようです』と連絡が来て妹と泣きました。
大好きだった私のおばあちゃんにもう2度と会えなくなる寂しさと、浮腫や呼吸が苦しそうだったので楽になって良かった。の思いが入り混ざっていました。
おじいちゃんに会えたかな?
両親と9人兄弟の全員と会えたかな?
戦争で亡くなった大好きなお兄さんにも。
祖母が生きた時代は大きな戦争があり、皆と同じく辛い経験をしたそうです。満州や内蒙古(フフホト)から無事帰れましたが、姉妹はギリギリ最後の引き揚げ船に乗れたものの、動かない乳児をずっとおんぶして帰国したそうです。
このような事が当たり前に溢れていたそうです。
そのような事を聞いていたので、私の育児には常に戦時下より全てにおいて恵まれている。と感謝の気持ちを持って娘と接する事ができているのかなと感じます😊祖母の体験があったからこそです。
私は初孫で、とにかくかわいがられて育ちました。祖父母がくれる愛情が無償の愛なんだな。と実感できました。
娘が生まれてひいばあちゃんになってからは、娘は大切な宝のように育てなさい。と何度も言われました。
娘が生まれてからは、ベルギーへ渡航したこともあり毎日メールで写真を大量に送っていました😊
細かく見てくれていて、娘の事は何だって知っています。日常の気づきもしっかりアドバイスをくれました。母からもらうと喧嘩になりますが祖母からは何でも素直に聞けます(笑)
誕生日や結婚記念日等にも必ず忘れずに電話をくれていたので、亡くなった後の結婚記念日に電話が鳴らず寂しい思いをしました。
でも、きっともう老いに縛られることなく自由に飛び回っているんだと感じています。友人が多くてフットワークが軽い祖母だったから😄
叔父からおばあちゃんがいなくなって皆悲しいけれど、私や母や妹や親族のDNAにおばあちゃんはずっといるんだよ😊と素敵な言葉をもらいました。
自分の手のひらをじっと見ると、何となく似ている気がします。
娘にだって受け継がれています。
こうやって人は繋がって、生まれては死んでいくんだな。と大きな時間軸の流れを見た気がしました。
ほぼ1世紀を生きたおばあちゃん。
年を取った後にできた小さな親友。と私の事を優しい眼差しで見ていてくれました。
私もリレーできるかな😊